昭和43年11月8日
X  御理解第99節
 無学で人が助けられぬと言うことはない。学問があっても真がなければ、人は助からぬ。学者が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。


 これは自分がお陰を受けるとか助かると言うことだはなくて、「人が助けられぬ事はない、」という、人が助かると言うこと。これは大体、お取次をさしていただく者への御理解であろうと思います。ネ けれども、私共信心をさせていただく者が徳を受けて、そして、その徳によって、自分が助かり、自分の家が助かり同時にそれが自分の周囲の者の助かりにもつながって行かなければなりません。
 最近こゝでは、御神徳を受けていくと言うことを、しきりに頂きますね、同時にこゝでは、「此方は、無学でも、」といっておられるが、又「学問があっても、学者が身を食うと言う事がある、」とも言うて居られると言う事は、学者が悪いとかいたゞきますね、同時にこゝでは、「この方は無学でも」と言うて居られるが、又、学問があっても「学者が身を食うと言う事がある、」とも言うて居られると言う事は、これは、学者が悪いとか、学者では人が助けられぬと言う事ではない。確かに、教祖御自身、学者ではなかった、言うなら御自分でも無学の百姓と言うて居られる様に無学の百姓であった。
 しかし、当時のお百姓さんとしては、やっぱりいろいろ勉強なさって居られるです。ネ この御理解とか御教えを書き留められておると言うだけでも、やはり相当の勉強をなさっておられなければ出来る事ではない。仲々そして博学でおありになった事が分かりますもんね、御理解や御伝記なんか読まして頂いておると。
 ですから、その現代で申しますと、大抵の人が高等学校出てるもんですから教祖の時代から言うと、現代の人達は皆学者と言う事になる。
 大抵の難しい本でもこなせれるネ、中学、高校まで卒業したら分かってくるんですけれども少うし学問が出来ますと理屈を云う、ネ
そして目には見えない神様とか目には見えない心とかと云うものを大事にすることをしない、ネ、目に見えない神様の追求とか、なら自分の心を大事にしようとしない、それが少しばかりの学問が邪魔になると言ったような場合がある。
 けれどもそう云うその学理が伴ったところの信心と申しましょうかここで云っておられます、「真がなければ人は助からぬ」、とおっしゃっておられますから学問を身につけて同時に、その真の追求ですかネ、その真の人にならせて頂くということですかネ あればこれは私は鬼に金棒だと、こう思います。ネ 
 理論の上に立った言わば宗教ですから、もう動かない むしろ、その無学でなんにも分からない者が言わば盲滅法に信心を頂いて、神様が分かったと言うよりも、むしろ強いものが頂ける。
ですから、学問をすると、それが邪魔になると言うことであってはならない、学問があって信心を頂けばなお有難いんだと言うふうにやっぱ頂かなきやいけないと思うですね。
 ま、幸い私は学問がないから時々非常識なことを言うたり、したりする訳ですけれども、それでもよくその学問のある人から見てですネ、成程非常識ではあるけれども、成程信心とはあゝ言う風に非常識とは超常識だと言うふうに感じるのでございます。
 常識にあらずではなくて常識をこえたもの、それでもやはり学問を学問をした人がです本当に信心に心寄せて人が見たりまた聞いたりするとそれが言わば御神意に叶ったことになっておるのでございます。そこでこゝでは、真が無ければ人は助からぬ、これは学問があってもなかっても同じこと、それで、その真と言うのはどういうことか、教典を紐解きますと真と云う言葉が沢山出て参りますね。三代金光様も一心の真とか真一心とかよくおっしゃっておられまよね。
 一心の真とか真一心と言ったようなことは…を以てすればお陰が受けられる又人も助かると言うわけなんですねえ。
 昨夜は定例の総代会でしたが、それで、久富勇さんが企画委員長をしておられますから、その前の晩に企画の方達が集まって様々に企画しましたことを総代さん方にそれを検討もらうべくそのことを話しておられる、その前にここでそのこう言うことを昨日企画で企画しましたから今日はそのその事を総代に伝えますと言う、お届けがありました中にこゝの手洗いのお水の事が出ておりました。
 それはどういうことかと言うと、手洗いの淵が白くなるんすネ、最近それがひどいんです、それで以前は毎日洗っておったけれども最近では何日おきかにしか洗わないらしいのです、ですからあゝなるのだろうとこう言う事だったけれどもまあ一遍あの水を水質を検査してもらおうと云うので高橋さんがご苦労してくださって、どっか頼んで見てもらった。
 ところが非常に何かが強くて飲料水には不向きだと云うことになった、二つの井戸がありますが二つ共調べてもらったが、やっぱり同じように飲料水には不向きだとこう言う、そこでまあ相当五万か十万かかるでしょうね、
 機械を据えてそのいたしますとですねそれをそう言ういうなら悪質の水でも良質の水になると云う機械が今あるそうです。だから、そう言う機械を売っておるところで調べてもらわれたわけなんですね、そしたらそう言うことになった。
 けれどもまあ一丁、念の為にと言うてまあ県の衛生課ですかね、これはもう権限を持ったその衛生的な検査などもしてくださるところがあるそうですからそこに持っていかれた。ところがその全然違う訳なんですねえ、
 商売でして居る人ん所と県の方でやってくださっとるととは違う、そして、これは飲み水に適して居ると云うことになった、もう一つの水も持って行ったところがやはりそれも飲み水に使って差支えがないと言うことになった訳です。
しかもそうした気になる所で調べてもらって、ちゃんとその色々 細かに調査してあったその書類までもらって貰うてきておられましたが、
 それから何日かいたしましてから機械を売るところの前検査された所の家からどんなだったかと、まあ機械を購入せろと云う訳なんです、けれどもこちらではもう、その購入する必要は無くなったんですから、
 けれども、やっぱりもう一辺念の為検査をしてみろうと云うような話を企画で取り上げられたんです。そおれでもう一回検査をしようと言う事になったんですネ。
 もう本当にあのこんこんと湧いて尽きぬ程に頂いておるお水頂いてもおいしいお水‥‥ネ もうそれこそこれがいろんな検査やら何やらをしない以前だったら、とても良い水としてあれをまあそのせっかくの、お水にけちをつけるような事は云わなかった。しょう。
 ところがなまじっかその学問をもってその質を検査したところが飲み水には不向きであるとか、又良いとかまあいろいろな細かあ-いその検査の結果が出て来るわけですね。
 これも、やっぱり学問のお陰なんですから、‥だからこれは椛目あたりのあのお水だったら、ひょっとすると飲み水には不向きと言ったような事にでるだんしれんかと云うて高橋さんと話した事です。あまりに味が良すぎるです‥ネ
 けれども、それを昔の人は、学問の無かった人は結構なお水として頂いたに違いないのです。ところが、なまじっか学問がある為にです、そう云われてみるとそれが体にどう云うふうに障るのじゃなかろか、あゝじゃなかろうかと云うならば天地のお恵みのお水に対してそのけちをつける様な頂き方の中から私は、学が身を食うと言う事はそいうことじゃなかろうかと思うのです。…ネ
 そこでその、私その時申したんですけれども高橋さん例えて云うならね、個人の病院に行ったらこれは非常に悪いと言われた、ところが言うならこちらの権威のある病院に行って、個人の病院に行って診察て貰ったら大変悪いから入院せろと言われた。所で今度は県立病院と言うか市病院の様な所に行って調べてもらったら、これは心配有りませんよどうも有りませんよと言はれた。       これはもう私共の邪推ですけれども、向こうは機械を売りたいばっかりに悪かと言いよるのかも分らん。
 例えば病院で言うならば、例えば入院費を儲けたいばっかりに入院せろといいよるのかも分らんと言うようにです、受けられるのですけれども、ネ
 だからもうわざわざ片一方で良かといいよんなさるとじゃけんでそん体の中からです又わざわざ探し出して悪かとこ探し出ださんでも、もうそれで良うはないかと私申したんですけれども、まあ念の為にもう一辺調べてみようとこう言うのである。そのお届けが有ったんですヨ、
 そして私は今朝の九十九節を頂いて見てです、はあー、そう言う様な事が、学が身を食うと言う様なことではなかろうかと私は思う。ネ、成程、その学問によって、この水はいよいよあゝ大丈夫だと言わなければ安心がいかんほどにあると言うことは、もう既に学が身を喰うておると言う事である。
 ですから、その学問をもちっと、もっともっと極めるとです。結構なお水を頂いて有難いと学の無いものが、そのお水が有難いとおし頂いておるようなところへ答えが出るような気がするのです私は…ネ 例えば、それが学問から言うたら、…ネ 
 例えば、それが学問から言うたら、その、体には少しは合わなくともです。有難く頂くと、ろから最近精神医学と言った様なことが、この頃私の糖尿病についていろいろ有る方が話し合った居られる中に、小野先生が入って居りましたが、「ホントーの事を言うとですね、」と言うて医者の立場から言うておるのです小野先生が、…「ホントーな事を言うと糖尿病はもう精神的なものが一番強い、」と言われておる。
あれを食べちやいかん、これ飲んじやいかん、けれどもホントーな事言うと、と言うて居ります、
 だから私が言うのはホントーな事言うと、このお水でお陰頂くと言うことなんですよ。…ネいわば皆さんが、あのお水を頂かれる時にです、本当に勿体無いと、例えば伊万里の竹内のおばあちゃんなんかは必ずここのお水を頂かれる、しかも頂いて帰られる。   御神酒さんばっかりでは勿体無い、そして、いわば、いうなら、それで腹が痛かときでも頭が痛か時でも、その御神水でお陰を頂いて居られると言うこと。
 ここにね、御神水としてのいわば頂きかたと言ったようなものがです。学問があってある人が出来る様なところにいかなければ、その学問はほんな学問ジャナイ、…ネ 学が身を食うと言うこと、ここでいうことネ
 だから、決してその学問がいけないと言うのじゃない、学問がもう一丁そこ迄行かなくちゃいけないと言うことなんです。…ネ  糖尿病にはこれはいかん、あれはいかん、そげなこつしよるとやり損なうと言うように、ずうっとこう言われるけれどもその私が食物の事についてはあんまり無関心ですから、…ネ
 小野先生がこれじゃいけないと言うて話し合いをしていたんです。そして結論としてホントーな事言うと、これは医者の立場からいうてもです。ネ 糖尿病は言わば精神的な事が一番左右するんだと言うこと、ネ
 ですから、例えばですね、これは私の知っておる或る方が糖尿病で何十年というて食事療法をなさっておられる。そして七十か八十近くにもなられるんだけれどもやはり元気なんです。
 非常うに食物に厳格らしいのですネ、そしいてから何時もその七輪には豆がかけてある。もう豆だけ、ご飯食べ無さらん、大豆なんですネ。
ところが最近の糖尿病の、あれを見るとです。その大豆はいけないと言うことにおるのですよ。
 最近は、医学がそんなに変わって来た訳なんです。ですから、いけないものを何十年食べてきとんなさるけれども、自分はこのような養生しておるから自分は健康になれる。かえって健康な者より糖尿病の口養生する者のほうが長生きすることと思い込んじゃる訳です。ですから、何十年間ご飯を食べずに大豆だけを食べてくるという生活をしておられるけれども現在お陰うけとると言うことは精神が左右しておる。
 自分はこれだけ徹底して養生しよるから大丈夫というものなんです。…ネ  自分はこうして甘い物も頂きよるけれども、お陰を以て、いわばお水じゃない御神水として頂きゃお陰になる、というものを心に頂けると言うのはです、…ネ
 私は超常識であり、信心させて頂く者の頂き方であり、学問をいよいよ極めたところのものと同じ答がえが同じものが出るのだと、…ネだから、私共は信心を、まあお互いですよ、皆さんの中ででも、高校を抜けて居られる方がほとんどだと思うんですけれども、私共の様に小学校だけの者は、だから小学校程度の者は無学の者と言うことになるでしょうが、‥‥ネ
 だから学問的に良く分かりませんけれども、学問的に申しまして学問を極めて参りますと、御神水と言うことになるのだと思う、お水でも、…‥ネ
 それを例えば一番左右するものは精神だと言うことなんです。 それと良く似た様な事が、お互いの生活の上にもです、唯良識とか知識がですネ、いわば信心の芯に触れられんで居るような居るような事は有りはしないだろうか、もし有るとするならば、それは学が身を喰うておるおることになるのでございますから、もう一段とそこんところを極めていかなければいけないと言う事でございます。…ネ 私はそのことを勇さんからここで聞かせて頂いて、そしたら
 神様から、お知らせ頂とがですネ、あのレンガで積み上げたエントツを頂くのです。ここにも炊事場があの煙突が、かまどの煙突があのエントツの上にあの、こんな傘がつけてあるでしょうが。その傘の上に又傘ば付けよるところを頂くのです。
 はゝあー、これは、いらーんことばしようとしてるなと言う事でございます。…ネ
 煙突が、こうある、あれはその危険だから火の粉が上に飛ばないようにこうしてある訳です。
 それをこうしてある上に又こうつけよる訳です。…ネ だから、今日例えば高橋さんがもう一辺持って行って検査をして下さろうと言うことは、もうそげないらんことはするなと、私は思うたのです。ネ  それはお金はかからんかも知れなん。けれども、そんな暇、手間の要るような事はするな。本当にあれを御神水として頂けと言う事だと思う。ネ…
 そして御理解にこう頂くんですよ、危険を感じるならですよ、…ネ 煙突掃除をせろと頂く、ネ これに、煤が一杯たまるから危ないのです。煙突掃除の方をせろ‥と
 例えばあそこに、白いものが着こうが毎日洗っとるなら、いっちょん着かんかったんですよ、ところが、この頃は例えば十日も十五日も洗わんような事があるもですから、あれが着くんですから、毎日あれを洗うようなことしたら、こげんとん着きよると思うような事も無くて、だからネ  煙突掃除の方をせろ中の方を掃除せろと言う事じゃないか、
 勿論そこじゃ、りません。そのまあ一丁向こうにはです。こちらの煙突掃除をせよ、と言う事は、もう一段信心を進めてみよ、御神水として頂けると言う事だと私は思った。
 しかし、本当に神様のあのこうして神様の知恵に触れてみてから、それが分かるのでございますが私共の信心、学問がなまじっかですから、やはり、いけないと言われりゃ、もういけないと思うていまう。…ネ
 そこんところを、もう一段学問を進めてみると、そうじゃあない、ぎりぎりの本当の事は、精神が一番左右するのであると言うことになり、ネ もう一丁、そこんところを信心を極めていくとです。
 それを本当に御神水として頂ける、いわば超常識と言う事になってくる。不衛生だと、例えば、あのお不動様やらお大師さまの前にこうやって、お水がお供えしてある訳なんですね、
 そのお水を頂いて来てから目の悪い人達がこの目につけた、そげんとば、又頂く、もうこげな危険な不衛生な事はない、今日それを本当に仏様のお水として頂けば、成程目が直ると言う事実があるネ、 だから、それを非衛生とこう唯非衛生と言うよな事だけで私はそのそれがいけないと言下に言うてしまう事ではいけない。…ネ
 勿論私共はやはり常識的にもならなければなりません。いや、それが学問ですから、ネ けれども、そこんところが衛生的であると同時に、超衛生的な頂き方もまた出来れる信心、そこんところが私は、「此方は無学でも人が助かっておる。」と言うことになるのじゃないだろうかと思うのです。
 そこんところ迄の信心を極めさしてもらうお陰を頂きたいと思う。教祖の時代から言うならば、現代の人たちはもう全てが学者、…ネですから、確かにそのなまじっかその学が、かえって身をくような事があってはおらんたろうか。
 私共の、私の「ばば」なんかは、私共が怪我でもしたら生神金光大神様、天地金乃神様ち言うてから、お土をこうやってつけてから、
怪我したところに塗ってくれよりました。…ネ
 そげな非衛生的なと言うけれどもです、現代の医学で申しましてもです、あの泥の中には傷を癒す働きが有ると言う事でございます。
 だから、もちっと学問を極めると、と言って泥を付ける事がどうと言う事はないけれども、それで、それを信じられるところにです。ネ 私は信心がある、言うならば、金光教の信心は超常識だと超常識と言うふうに言われるのも、そんな事だと私は思うのです。ネ そう言うところにも学問が有る上に、触れていけれる信心を頂きたい、でなからなければ「超」、が付くようなお陰になってこない、…ネ  唯常識的なお陰にしかなってこない。
 どうでも、一つお陰を頂きたい、此の九十九節は私が申しました事から、そう言う意味合いからは少し外れるかも知れませんけれども…ネ、「真が無ければ人は助からぬ。」…と
 真が有れば、だから学問が有っても助かるんだと、…ネ    学問を本当に極めていったら、、学が身を食う様な事は無いのだ。信心と一致点が出てくるんだと、
 だから、私も学が無いから分らんけれども、そう言う気がするのです。そこんところに、大体私は今後の合楽の信心と言うのがある様に思うのです。いわゆる、お徳を受ける世界なんです。
 お徳を受けなければならん、お徳を受けなければならん、と言うのはそこの事なんです。
 これもまあ少し余談です、れどもネ、昨日秋山さん達が親子で、…親子ではない夫婦でお参りになられました。四十何日かぶりで出てきたとこう言う。
 もう本当に有難いお陰を受けております。話を聞けば聞くほどに成るほどお徳に成るだろうと思います今度の災難は、いうなら、お陰受けています。丁度お届けに来る前に昨日は母が朝から何度も何度もお広前に出てくるんですよ。けれども、そのお届けしようと思うて前に出てくるのです、ところが何時も私がここでやっておるもんで。その度に待って後空で出てきた。
 と言うのがね、その東脇殿の所でね、誰かお産しよんなさると、それけんで、早う、たんぜん、なっと持って行かにゃと風邪ひきな
さると、たんぜん、を持って行ってやってあげよるところのお夢を頂いておる。
 次には、その、それこそ、まな板の様に大きな鯉が、あそこに掘ってある泉水で、もう、がちゃがちゃ、やってその泳いどるころを頂いた。
 次には、あの、二つの茶碗が、あら、二つの茶碗が割れた、と言いよるところをお夢に頂いた。
 はあどう言うこっちゃろうか、茶碗が割れたと言う、鯉のお知らせは有難いといたしまいても、どう言うこっちゃろうかのうと、 それは神様にお願いしとこうと言うて、母があちらに下がるその後から秋山さん達が参って来ました。
 そして秋山さん達のお届けを聞きよってから、はゝあ、これは秋山さんの事じやったねと言うて、又改めて母を呼びにやりましてからネ、母が頂いとる、通りの事をあの人達に聞いて頂いたんですけれども。
 ここで、あの、お届けをされる時その事を言われるのですよネ、
私共は、今度の怪我を境に私共夫婦が生まれ変わらせて頂きますと言うのが一番口じゃった。
 はゝあ、此人達が誕生するとじゃったばいなあと私は思うたんです。…ネ
 次は、どう言う事であろうかというとです。もうご主人と奥さん 
がもう 次いでの怪我でしたでしょうが…ネ、          だから、今度は私共の命が無いところをです、二つに分けて下さる様な、お繰合わせを頂いた事を実感います、           はゝあ二つの茶碗が割れたと言う事は此の事じゃったばいなあと思ったのです。                        そして、今度怪我をされてから休まれた一番初めに私が御神米と共に秋山さんに事ずけた事は、今度と言う今度は、唯お陰頂いたじゃいかんよ。                         今度の事によって徳を受けにゃいかんよ力を受けにゃいかんよ、と言う事がまな板の様な大きな鯉であったと私は思うのです。…ネそれで、大変有難い、それでもう十二時になりましたから、御祈念
さしてもらって、そうさしてもらってましたら又頂きますことがですネ、どうして、最近ここでは徳を受けなければ、御神徳を受けなければ、それを徳にしなければ、唯節を乗り越えただけじゃいけん。その節からいよいよ芽が出る、いよいよ節から伸びる、そう言うお陰を頂かなきやにゃいけん。
 今までは難はみかげ、 難あって喜べと言うて来たけども、難を喜べるお陰を頂いて居る者がいないじゃないか、…ネ
 難有って、「難はみかげ、」とおっしゃるが、難を本当にお陰にしきっておらんじゃないか。…ネ
 その難に体するところの処し方、難の受け方、頂き方が間違うとるとじゃなかろうか。こゝんところを検討しなければならないと言うふうに言われる。…ネ
 それでゝすね、昨日は善導寺の青木さんも丁度長い間休んどった秋山さんと一緒にお礼に出てきとった、私がそこで、テープを頂きよんなさって、私がこちらから下りてきてから、あそこに座って言うんですよ。…ネ
青木さん、貴方はね、いっちょ本当にお陰を頂いて神様のお働きをよう分からせてもろうて、お陰を受けなければいけません。
 そこに野口さんやらみんなおられましたが、その秋山さん達には、この人達には私が言う、長年信心させてもらって、お陰はよう分かっておるのだから、ネ これからはお陰を分かるより一つ徳を分かり徳を受けると言う、お陰を頂だかないけんばい、今その事を私はお知らせを頂いたばいと言うて話したことでございました。
 と言うのはですね、もう合楽の方達はですね、小さな谷川から川へ出て、その川が広くなって、もう海にでも抜けれ出そうかと言うところ迄行っておるとおっしゃる、神様が…
 だから、どうーでも徳の船を頂かなければ、いわば大海の様なお陰に成っていかないち。もう泳いでも行かれない所にもう出ろうとしておる。こゝで例えば徳を受けなかったら、どこどこにも沢山有る様に、何十年の信心しござるけれども、
 昨日もそげな参り合せしてる人があるんです、私の近所にどこどこ教会の総代さんが二人もござる、けれども信心しござるけれども
お陰をいただきごさる風でもない、そして信心の有難さを身に付けてござる訳でもない、信心の有るものも無いものもかわらん、いや時々には信心のなか者よりも浅ましかこつ言わっしゃる、と言う訳なんです。そういう信心に脱してしまう。
 何十年信心しよるけん、お陰のほうではやっぱ頂いとるもんだから止めはきらん。…ネ
 合楽の場合はネ、もうそう言う大きな川から海に打ち出そうごとあるところに信心が来ておるから、ネ もう、ここで、徳を受けなければ、この本当のお陰になっていかない、
 ここで今徳を受けとかなければと言うことを盛んに言はれるのは、こう言う訳だと言うて、まお話した事なんですけれどもネ、
 どうでもお互いが徳の船を頂いて徳の船に乗らせて頂いて、そのお陰をうけなければならない。
 「此の世は徳の船に乗って渡れ、」と石橋先生は言うておられます。…ネですから、そこの、そこ迄はですね徳を受けなくても言ゝです。お陰からお陰と追ってきていゝんです。こゝ迄は、……
 けれども、これからは徳を頂かなければ本当の事になっていかな
いと言う、言わば、ところに、今の合楽の人達は立たせられておる。…ネ
 最近思うことは、御理解の百節から以下十何節あたりは皆んなお取次者に下さる御理解なんです。最近は取次者に下さる、言わば人が助かると言う御理解を特に強調して頂く所から見てもです。
 もう、椛目から合楽に繋いで十年、十五年と信心の続いておる人
達はです。…ネ 各々のもんが取次者にならして頂けるくらいな、
徳を受けなければならないと言う様なものを感じるのです。
 昨日も、私総代会で久しぶりで、もうお話が尽きんのですよネ、信心話になりましたから、それで、私、総代さん方に頼みました。
 貴方方は合楽教会の初代の教会、一番、初代の総代さん方なんだ、はあ、初代の総代さん方は皆んなお徳を受けておられたなあと。後々の者が言える位な徳を受けて、お陰を表わしていって下さい、…ネ徳を受けなければいけません。
 高橋さんあんたが今言うとるその事も徳を受ける元だ、永瀬さん
これも、やっぱ今こそ徳を受けなければ「いきゃ」?なかばいというふにです。お話をさせて頂いた事です。…ネ
 徳を受けて、いわば、お陰もその、頂だかねばですね、もうそこんにきで、言うならば、なんちゅうですかね、信心が毒にもならなきゃ薬にもならんと言う様な結果になる訳なんです。
 ここで、徳を受けてこそ初めてお陰、と言うて、それまでの、んなら初信の人にですよ徳を受けよ、徳を受けよとは言わん。青木さん、あんたはお陰を受けなさいとこう言うておる。…ネ
 そして、川が広うなって信心が段々分かってきて、きたら、もう、これは本気で徳を受ける事の信心にならにゃいけない。…ネ  そこには、どうでも今日私が申しますようなネ、九十九節に有りますようにネ、 「真が無ければ人が助からん。」
 此の真と言うのは、ネ学問を身に付けておっても真の追求をさしてもらうところから、場合には考え方では非常識と言はれる様なところがあるかもしれんけれども、それが超常識と言う事になって、ネ 超が付く様なお陰と言うのは、もう徳の世界だと私は思うので
す。…ネ
 超満員と言うような事を申しましょう、超が付くのはもう、やはり唯のお陰じゃない、もう此れは徳を頂くところのお陰だと私は思うです。…ネ
 その徳を受けさして頂く為にも、私共がいよいよネ、御神徳を受けさして頂く為の、その問題をお陰にしていくだけじゃなくて、此の問題を通して此れを徳にしていくと言う、私は姿勢が、いよいよ望まれておるのじゃないか、合楽の人達の場合はと言うふうに思うのです。                  どうぞ